教育に関する一般的な誤解

学校の授業などにはある種の都市伝説のような誤解が蔓延していると感じています。先日の朝日新聞に「社説)国際学力調査 生活とつながる学びを」という文書が掲載されました。国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)の結果をもとにした論評です。

この調査についての詳細は知りませんので分析手法などについては意見はないのですが、この社説の筆者が一般の方の誤解を代表しているような論を一部展開していたので触れておきたいと思います。

この中で、教員が忙しすぎるということを批判しているのは私も大いに賛成です。

しかし時間的余裕を持てるようにして、<<工夫を凝らした授業を準備し実践するには、事務作業をはじめとして過重になっている業務を整理し、教員自身の学ぶ機会を増やすことが欠かせない。>>とあるように工夫を凝らした授業をすることが必要だと考えているようです。

この「工夫を凝らした授業」こそが曲者なのです。

「工夫を凝らした授業」と言いますが、その目的は児童、生徒が「興味を持つ」「理解しやすい」の二つ以外にはないはずです。

ところが学校の教師は「楽しい」とか「生徒に受ける」、「やってるふりをする」などを目的にしているとしか思えないような工夫をします。

税金を投入した立派な教科書があるにもかかわらず、教科書をそのまま写したプリントを作ってみたり、模造紙にイラスト入りでまとめたものなどをわざわざ使って授業をします。

児童、生徒に「興味」を持たせることは大切だと認めますが、その「興味」とは「知的好奇心を刺激された結果の興味」でなくては意味がありません。例えば歴史の授業をしているとき、子猫のイラストが出来事の紹介をしてくれたら生徒は喜ぶでしょうが、それは歴史が楽しかったのではなく、子猫が楽しかったのです。

プリントや模造紙を使った補助教材などを使うと「やってるじゃないか!」と評価する人がいるからいつまで経ってもこのような授業が後を絶たないのだと思います。

ぜひ、教員の皆さんの時間的余裕を確保して、教員の皆さんに児童生徒が「その教科、その単元に」興味を持つような授業とはどういうものかを考え続けて欲しいと思います。

また、教員が学ばねばならないのは教え方や生徒の評価の仕方ではありません。

もちろんそれは必要ではないとは言いませんが学ぶことではなく、自分で開発したり、先輩、同僚との対話の中で身につけ、授業で実践し、改良していくものです。

教員が学ばねばならないのは「全て」です。哲学、憲法が必須なのははもちろん、自分が専門でなかったような分野も積極的に学ぶべきです。その内容は直接児童、生徒に伝えるわけにはいかないことが多いでしょうがそういうものを取り込もうとするだけでも自分が変わっていき、それが子供の知的好奇心を刺激するのだと思います。

 

この社説が陥っている、よくある誤解のもう一つは<<難しいことをわかりやすく教えてこその専門教員だ>>という部分です。

「難しいこと」は誰が説明しても難しいのです。

もし、わかりやすく説明できたらそれは「実は難しくなかった」のです。専門教員だろうがなんだろうが「難しいこと」は難しいのです。でも「難しいこと」をなんとか理解させる方法がないわけではありません。

その1つは「わかるまで繰り返す」ことです。

あまり手を替え品を替えせずに、なるべく同じ言葉をくりかえして説明し、生徒が挫けないように時間が許す限り付き合ってあげることです。

私が大学生の時に向井利昌教授が「頭のいいやつが書いた文は難しいんだ」とおっしゃっていました。

 

さらに誤解していることは<<「中2数学」と「中2理科」でも、「勉強すると日常生活に役立つ」と答えた割合は依然として低かった。>>とあることです。まるで「日常生活に役立たない勉強には意味がない」とでもいうような表現ですが、これははっきり考え直してもらいたい。

これは「会社の利益に役立たない仕事には意味がない」と似た考え方だと思います。

企業では正しい考え方ですが、企業の論理は企業で活用すればいいのであって、教育の場に持ち込むことには反対です。

勉強は日常生活に役立たなくてもいいのです。

もちろん、学者や技術者や教員のように直接役立ててもらわないと困る人もいますが、普通は学校の勉強を直接役立てている人は少ないでしょう。

例えばほとんどの人が中学の数学で「三平方の定理」を教わりますが日本人の何パーセントが「生活に役立てている」でしょうか?

三平方の定理」自体は多くの人にとって役に立たないかもしれないし、役に立たなくていいのです。けれど、それを身につけるために四則演算を学び、文字式を学び、式の変形を身につけ、因数分解を身につけ、ルートの扱いを身につけ・・・といった積み重ねが必要だったと知ること、経験すること。そしてそれぞれを身につけるために自分が工夫や努力や苦労を積み重ねたこと。そういったこと(経験)は必ず「役に立つ」のです。

 

私が一番問題だと思うことはこの社説では無視されていました。それは「教員の身分を安定させる」ということです。

これは地方だけの問題かもしれませんが、文教予算が削られたおかげで私の地元の中学には1年ごとの契約更新が必要とされる教員がたくさんいます。こういう人たちの身分を安定させ、もっと児童、生徒に落ち着いて接することができるよう、精神的、時間的余裕を作ってあげることも重要だと思っています。