気をつけるべきこと

20220/6/22朝日新聞デジタル

<<<発達障害の人を雇って生産性向上」 感じた二つの違和感>>>

というタイトルの記事がありました。

筆者は二つの違和感について、

 

<<<経済産業省のホームページ(https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/diversity/neurodiversity/neurodiversity.html)に発達障害の人の特性はデジタル分野が得意だから、もっと雇用して、イノベーションや生産性の向上につなげましょう、とある。しかし、発達障害だからITが得意とは限らないこと。生産性向上の文脈で語られることは、向上しなかった場合、バッシングにつながりかねないことだ。>>>

 

と説明し、発達障害のある人を「健常」と言われる人の側に取り込むのではなく、発達障害にかげらず、多様な人が共に働き、暮らしていける世の中を作っていこう。

と言いたいのだと受け取りました。

この記事の結びは

 

<<<多様性は目指すものではない。すでに、そこにあるのだ。>>>

 

でした。

この人ははっきりと「発達障害だからITが得意とは限らない」と言っています。

それは、「発達障害」と言われる人の中にも多様性があると主張しているに等しいと思います。

しかしこの記事の中に発達障害の一種であるADHDの診断を受けている同僚の話として以下が出て来ます。

 

<<<いわく、情報を一時的に記憶できる容量が限られ、複数の情報を比較して考えることが苦手だったり、没頭するとほかの情報が入りにくかったりといった特性があるという。

 「でも『健常』な人たちが三日三晩、休まず仕事を続けるとか、細かい作業に没頭し続けるとか、私たちが苦もなくできることができるよう努力を強いられることはありません。少数派である私たちにのみ変容を迫り、自分たちが変わろうとしないのは、不公平ではないでしょうか」>>>

この同僚の主語は「私たち」です。この記事の筆者は、ADHDだからといって皆んなが三日三晩、休まず仕事を続けられるとか、細かい作業に没頭し続けるとは限らないとは言いません。

ADHDの人の中に多様性は認めません。

以前書いた通り、私の妻はアスペルガー症候群(今は自閉症スペクラムというらしいですが)という診断を受けました。私の知り合いに「日本小児科医会 子どもの心相談医」の資格を持った医師がいます。彼に妻の話をしたところ、この病気の特性を語り、私にアドバイスをしてくれましたが、妻にはほとんど当てはまりませんでした。

友人が話してくれたことは妻と同じ病名をつけられた人の最も広範囲をカバーしうる通説としての「特性」です。これは個人の症状と類似性があることは間違いないでしょうが、その個人の理解に繋がるとは必ずしも言えません。

こう考えると多様性を語るということは、皆んな(個人個人)が違うということに等しいと思います。

この記事の筆者は「発達障害」という括りの中に「多様性」を認めることはできたけど、それに包含された「ADHD」という括りには「多様性」を認め得なかったということになるでしょう。

「社会」の中に「発達障害」の人がいて、その中に「ADHD」の人がいて・・・・・と考えていくと、結局「個人」に行き着き、多様性を認めるということは個人個人が皆違うということを認めることだと同じことだとなると思います。

そう考えるとこの記事の結びが

<<<多様性は目指すものではない。すでに、そこにあるのだ。>>>であることは帰結として正しいことは明白です。

しかし、例えばADHDの人について語りたい時、対象を「ADHDの人たち」に括らないと何も語れません。

多様性を大事にすると言ってADHDの人全ての個人の状態を語ろうとすればそれは到底無理(世界中のすべてのADHDの人を知る人もいないし、診断されてない人もいるなどの理由から)であり、議論をやめることに等しくなります。ですから、何かを議論しようとした時、対象からこぼれ落ちたり、例外に入ったりする人は必ずいることを常に「想像」し、意識することこそが全ての根幹ではないでしょうか?この記事を書いた人が多様性を大事にし、発達障害に苦しむ人の立場に立った記事を書いたことは私の定義する「ジャーナリスト」の正しい在り方だと思います。

しかし、そういう立場、思いで書いた記事にもついうっかり同じ誤謬が入り込む。当然私のこの記事についても同じことが言えます。

何かを言おうとする時には必ず抜け落ちることがあると常に自覚しないといけないのだと考えさせてくれる記事でした。